2012/05/23(Wed)
 ことごとなるもの  法師の詞(ことば)。男女の詞。下司(げす)の詞に、かならず文字あまりしたり。
2012/05/16(Wed)
  正月一日は、まいて、空の景色うらうらと珍しく、かすみこめたるに、世にありとある人は、姿容心ことにつくろひ、君をもわが身をも祝ひなどしたるさま、殊(こと)にをかし。

 七日は、雪間の若菜青やかに摘み出でつつ、例はさしもさる物目近からぬ所に もてさわぎ、白馬見んとて、里人は車きよげにしたてて見にゆく。中の御門の閾ひき入るるほど、頭ども一處にまろびあひて、指櫛も落ち、用意せねば折れなどして、笑ふもまたをかし。左衞門の陣などに、殿上人あまた立ちなどして、舎人の弓ども取りて、馬ども驚かして笑ふを、僅に見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの、行きちがひたるこそをかしけれ。
 いかばかりなる人、九重をかく立ち馴すらんなど思ひやらるる中にも、見るはいと狹きほどにて、舎人が顏のきぬもあらはれ、白きもののゆきつかぬ所は、誠に黒き庭に雪のむら消えたる心地して、いと見ぐるし。馬のあがり騒ぎたるも恐しく覺ゆれば、引き入られてよくも見やられず。

 八日、人々よろこびして走りさわぎ、車の音も、つねよりはことに聞えて をかし。

 十五日は、もちかゆの節供まゐる。かゆの木ひき隱して、家の御達、女房などのうかがふを、うたれじと用意して、常に後を心づかひしたる景色もをかしきに、いかにしてげるにかあらん、打ちあてたるは、いみじう興ありとうち笑ひたるも、いと榮々し。ねたしと思ひたる、ことわりなり。
 去年より新しう通ふ壻の君などの、内裏へ參るほどを、心もとなく、所につけて我はと思ひたる女房ののぞき、奧のかたにたたずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかまあなかま」と招きかくれど、君見知らず顏にて、おほどかにて居給へり。
 「ここなる物とり侍らん」などいひ寄り、はしりうちて逃ぐれば、あるかぎり笑ふ。男君もにくからず愛敬づきて笑みたる、ことに驚かず、顏少し赤みてゐたるもをかし。また互に打ちて、男などをさへぞうつめる。いかなる心にかあらん、泣きはらだち、打ちつる人を呪ひ、まがまがしくいふもをかし。内裏わたりなど、やんごとなきも、今日はみな亂れて、かしこまりなし。

 除目のほどなど、内裏わたりはいとをかし。雪降りこほりなどしたるに、申文もてありく。四位五位、わかやかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭白きなどが、人にとかく案内いひ、女房の局によりて、おのが身のかしこきよしなど、心をやりて説き聞するを、若き人々は眞似をし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ、啓し給へ」などいひても、得たるはよし、得ずなりぬるこそ、いとあはれなれ。

 三月三日、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲きはじむる。柳など、いとをかしきこそ更なれ。それもまだ、まゆにこもりたるこそをかしけれ。廣ごりたるはにくし。花も散りたる後はうたてぞ見ゆる。
 おもしろく咲きたる櫻を長く折りて、大なる花瓶にさしたるこそをかしけれ。櫻の直衣に、出袿して、客人にもあれ、御兄の公達にもあれ、そこ近くゐて物などうちいひたる、いとをかし。そのわたりに、鳥蟲のひたひつきいと美しうて飛びありく、いとをかし。

 祭のころはいみじうをかし。木々のこの葉、まだ繁うはなうて、わかやかに青みたるに、霞も霧もへだてぬ空の景色の、何となくそぞろにをかしきに、少し曇りたる夕つかた、夜など、忍びたる杜鵑の、遠うそら耳かと覺ゆるまで、たどたどしきを聞きつけたらん、何ごこちかはせん。

 祭近くなりて、青朽葉、二藍などのものどもおしまきつつ、細櫃の蓋に入れ、紙などにけしきばかり包みて、行きちがひもて歩くこそをかしけれ。末濃、村濃、卷染など、常よりもをかしう見ゆ。童女の頭ばかり洗ひつくろひて、形は皆痿えほころび、打ち亂れかかりたるもあるが、屐子、沓などの緒すげさせ、裏をさせなどもて騒ぎ、いつしかその日にならんと、急ぎ走り歩くもをかし。
 怪しう踊りて歩く者どもの、さうぞきたてつれば、いみじく、ちやうざといふ法師などのやうに、ねりさまよふこそをかしけれ。ほどほどにつけて、親をばの女、姉などの供して、つくろひ歩くもをかし。
2012/05/10(Thu)
 頃(ころ)は、正月、三月、四・五月、七・八月、九・十一月、十二月。すべてをりにつけつつ。一年ながら をかし。
2012/05/06(Sun)
 春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

 夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

 秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)

 冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭(すみ)持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。
2012/05/05(Sat)
 平安中期に活躍。姓は清原、名は不明。父・清原元輔(もとすけ)は百人一首に「契りきなかたみに袖をしぼりつつ  末の松山波越さじとは」が採られた三十六歌仙の一人。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)も百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」が入った『古今集』の歌人。こうした周囲の環境に感化され、彼女は幼い頃から和歌や漢文に親しみ、機転の利く明るい活発な女性に成長した。15歳で橘則光と結婚し、翌年に則長を産む。しかし武骨な則光とは性格が合わずに約10年で離婚した。24歳、父が他界。

993年(27歳)、関白・藤原道隆から「宮中で教養係をして欲しい」と依頼が届く。相手は関白の長女で一条天皇の中宮(后)、藤原定子(ていし、17歳)。それまで想像もしなかった夢のような宮廷生活が突然始まった。後宮には30名ほどの高い教養の女房(侍女)がいたが、清少納言の機知に富む歌の贈答に誰もが感心し、和歌や漢詩の豊富な知識もあって、彼女は詩歌を愛する定子に人一倍寵遇された。当時、漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい女性は男達から「生意気だ」と言われたが、清少納言は子どもの頃から父にみっちり教え込まれており、定子はそんな彼女を貴重な存在に思った。清少納言は漢文の知識で天狗になっている男達をやり込め、名声はどんどん高まった。

ところが、それから僅か2年後の995年(29歳)に道隆が逝去。関白に弟の藤原道長(「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」で有名)が就任すると、後宮の花形だった彼女の運命は暗転し始める。
996年(30歳)、定子の兄が道長の策謀で流刑になり、こともあろうに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れ、彼女は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。定子は母も他界し屋敷が焼失するなど不幸な出来事が続いていたが、これまでは陽気で勝気な清少納言が側にいるだけで気持が弾んだし、彼女が努めて明るく振舞い皆の心を元気にする姿に励まされた。それゆえ、早く宮廷に戻って欲しくて、清少納言が以前に“気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる”と言っていたので、20枚の紙(当時はとても貴重だった)と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記した。
彼女は以前にも定子が兄から貰った紙を贈られており、授かった紙に宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴ったものが随筆『枕草子』となった。
 
※『枕草子』…約320段の章で構成。『源氏物語』を貫く精神が“もののあはれ”(情感)の「静」とすれば、『枕草子』には“をかし”(興味深い)という「動」の好奇心が満ちている。作中には実に400回以上も“をかし”が登場する。この気持こそが、鋭い感受性で鮮烈に平安朝を描き出した清少納言の原動力だ。“枕”の由来は複数あり、「備忘録」「枕詞の集まり」のほか、唐の詩人・白居易(はくきょい)の漢詩集『白氏文書』(はくしもんじゅう)に登場する「白頭(はくとう)の老監(ろうかん)書を枕にして眠る」とする説もある。“草子”とは閉じた本のこと。

定子の気持に応える形で彼女は宮廷に戻ったが、再び波乱が起きた。1000年に関白道長が娘の彰子(しょうし)を強引に中宮とし、天皇が2人の妻を持つ事態になった(一帝ニ后は初のケース)。そして同年12月、定子は出産で衰弱して、24歳の若さで他界する。清少納言は自分より10歳も年下なのに聡明で歌の知識も豊富な定子のことを心底から敬慕していたので、この悲劇に打ちのめされた。そして、哀しみを胸に宮廷を去り、山里で隠遁生活を送るようになる(34歳)。

その後、摂津守・藤原棟世と再婚。1001年、清少納言が書いた『枕草子』の初稿は、非公開のつもりだった彼女の意に反して、家を訪れた左中将・源経房が「これは面白い!」と持ち出し世間に広めてしまう。驚くほど好評だったので、彼女はその博識を総動員して『枕草子』に10年近く加筆を続ける。やがて宮仕えの7年間に興味を持った全てのものを刻み終え、1010年(44歳)ごろ最終的に脱稿した。晩年は尼となり京都東山の月の輪に住む。
墓は滋賀坂本のほか、徳島・鳴門市の里浦町にも供養塔(尼塚)がある。
※「なにもなにも ちひさきものは みなうつくし」